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2011年11月29日

七五三に思うべき事

さてさて今日は、昨日の
新健康通日記:涙雨の七五三
の続き、七五三参りは、一体全体いつ頃から始まったものなの? 日本で初めて七五三参りをしてもらったのは、どこの誰? そしてそして、七五三参りの本当の意味は?? 七五三のあれこれに迫ってみましょうo(^-^)oワクワク。
まず最初に、この世で初めて七五三参りをしてもらったのは誰? という疑問から…。まあ当然ですが、綺麗に着物を着てお宮産にお参り出来る子供となれば、所謂おぼっちゃま・おじょうちゃまという事になるでしょう。なので、きっと貴族のご子息やご令嬢ではないかと思って、取り敢えずその線から調べてみる事にしました。
すると、やっぱりっというところ(*^_^*)。もともと公家には男の子は3歳と5歳で、女の子は3歳と7歳で迎える行事がありました。
当時は数え年で数えるのが当たり前でしたから、今のように0歳児なんていません。おぎゃ~っと産まれた時から、みんな1歳児です。なので、3歳になる頃、つまり今の2歳はちょうど乳児を卒業して、幼児に変わる時だったんですね。そこで、それまでは短かった髪の毛も綺麗に伸び、様々なヘアスタイルが楽しめるようになります。衛生面の事もあったのでしょう、実は昔の日本では、赤ちゃんの髪の毛はわざと剃刀で剃って常に短くしておくという習慣があったそうですが、3歳になると、子供たちは頻繁に散髪されなくなり、今度は逆に髪を伸ばすように勧められていました。これを当時の言葉では”髪を蓄髪(ちくはつ)する”と言い、「髪置(かみおき)」の儀として祝っていたのです。
その後、男の子は5歳になると袴を履かせてもらえるようになります。これを”男子5歳で初めて袴を着用する”と言われ、「袴着(はかまぎ)」として、やはり家族みんなで祝われました。そして、女の子たちは7歳になると、それまで着ていた付紐式の子供用のおべべから、レディースのきちんと帯を締めて着る本仕立ての着物を着せてもらえるようになり、「帯解(おびとき)」の儀としてお祝いしてもらっていたそうです。正に今の七五三とピッタンコカンカンの年祝いですね。
けれど、これらの儀式は、全て今思えば七五三のルーツになっているのでは!? というレベルのもの。当時はまだお宮産に参拝するという風習はなかったようで、今のようなスタイルの七五三としてお目見えしたのは、それから何百年もたった江戸時代に入ってからの事のようです。
日本で初めて七五三のお宮参りとお祝いをしてもらったのは、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男として生を受けた徳川徳松(とくがわ とくまつ君だったとの事!! 時は1681年、徳松少年2歳の思い出で、大切な跡取り息子の健やかな成長を神に祈る事にしたようですね。こうなると、その主旨は子供たちの将来を見つめたものとなり、今と同じになって来たような気はします。とは言え、子供たちの健やかな成長を祈るという余裕たっぷりの七五三参りが出来たのは、安定した生活を送っていた上流階級の家庭だけだったようです。
というのも、確かに七五三参りは、その後庶民の間にも見る見るうちに広まり、気が付けば適齢期の子供を持つ親たちは、毎年秋に競ってお宮参りをしていたようですが、実際には、子供たちの健やかな成長を祈るというより、今日まで生きていてくれて善かったという誕生日祝いのちょっと豪華版であったというのが、一般ピープルの本音だったからです。
今でこそ地球上でも有数の豊かな文明社会を繰り広げている日本国ですが、昔は今の発展途上国と大差ないほどの貧困社会で、また、医学的な知識が乏しかったため、例え裕福な家庭に生まれても、立派に成人出来るものはほんの一握りだったと言います。ましてや、貧しい町民や村人の子供ともなると、十分な医療どころか、満足な栄養すら与えられず、幼くして命を落とす子が後を絶ちませんでした。そのため、今では生まれてすぐ入籍するのが当たり前ですが、江戸時代は数え年で7歳になるまで今でいう戸籍表に当たる人別帳には登録されなかったそうですよ。それどころか、6歳までの子供は、あの世とこの世を常時彷徨っている存在として扱われ、神の内にいるものと人々は考えていました。ですから、幼い子供たちは、いつ神に召されても不思議ではないとされ、例え我が子がなくなっても、神の元へ帰っただけだと言われていたと言います。なので、当然葬儀や納骨など、故人を偲ぶような真似は一切せず、そっと供養するのが習わしだったそうです。
しかも、驚くべき事に、貧しい農村や漁村には、病弱な子や障害を持って生まれて来た子は、7歳になるまでに始末しなければならないという暗黙のうちのルールがあり、親がそれに逆らうと、他人が神隠しとして処理するという徹底したものがあったと言いますから、聞くも涙語るも涙の七五三参りの持つ意味の奥深さに様々な事を考えさせられます。
そこで、当時の日本には、今以上に中絶をする親が多かったと言われています。何故なら、胎児や乳幼児期に早世した子供は、境い目に出て来ていた命がまた神様の元に帰っただけで、早く亡くなった子供ほど現世で背負った柵の少ない分だけ生まれ変われる確率も高いと考えられていたからです。となると、当然この世の光を見る前の子供は、柵を全く持っていない訳ですから、必ずや生まれ変われる! それも、神のおもしべしにより、今よりずっと幸福に生まれ変われると信じられていたんですね。そのために、去ったものを忍ぶような儀式はあえて嫌った傾向もあったようです。
とは言え、いくら一旦預かった子供を神様に返すだけの事なんだからと言われても、やはり親としてはいたたまれないものがあったに違いないだろうと思います。しかし、貧しい農村や漁村では、こうした幼児の間引きや胎児の堕胎は、一家共倒れを防ぐためにはやむを得ないものであったのも紛れもない事実でしょう。
今の若者は、平気で自分の命を絶ったり、我が子の人生に終止符を打ったりする人も少なくないようですが、こんな悲しい歴史の元に、現在私たちは生命を得ているという事を今一度しっかりと認識したいものですね。
という事で、子供が3歳・5歳・7歳と無事生き延び、すくすくと成長して行く事の喜びと重大さを親が噛みしめる日、それが七五三参りの日なのです。健康通はおばあちゃんとして、立派に孫の七五三参りを済ませるのがどんなに大変かをたっぷり噛みしめました(^0^;)。でも、それは心から喜ばなければならない苦労なんでしょうね。だから、昨日の”涙雨”という表現は撤回!! やっぱり嬉し涙雨を降らせた事にしたいと思います。
ただし、こんな事を嫁に聞かれたら、後々面倒な事になりそうなので、ここだけの話ですけどね(..;)孜々。息子はどうにでも扱えるけど、嫁となると、やっぱそうはいきません。中々の強敵です(*_*)。
あっ、そうそう、女の子が7歳で七五三のお祝いをするのに、男の子が5歳でするのは、昔は男の子の方が気も体も弱く、7歳まで生きられない事が多かったからだという説もあります。やっぱり今も昔も女は強かったという事なんでしょうねヽ(^^)(^^)ノれやれ。
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